2023夏。今チャイコフスキーの交響曲第5番をやるという事。

ロシアを代表する作曲家であるチャイコフスキーが同性愛者であった事を知る人も多いかと思います。また、彼の死因については、アウティングされた性的嗜好により友人から名誉の自殺を迫られた(当時の帝政ロシアで同性愛は違法)という説もあり、この領域の話題は2023年夏の現在、社会的関心が高く、シリアスな側面を孕んでいると言えます。

また、確かにチャイコフスキーは世界が認めるロシアを代表する作曲家ではありますが、その作品がロシアそのものの広大神秘を代表しているかというと、答えはNOです。

特に交響曲第5番については、どちらかというと3人称ではなく1人称(私は~)の音楽であり、世界とか、宇宙とか、神とか、ブルックナーのような人知を超えた壮大なものに迫るような音楽とは違うように思います。

そして、チャイコフスキーの音楽表現自体が、彼独自のものというよりも、それをドイツ音楽的な語法に止揚させた、せざるを得なかったもので、当時のヨーロッパからロシア方面を見たときに感じたであろういなたさ、アカ抜けなさをあまり感じない、洗練された魅力を持っています。悪く言うと無国籍な感じでしょうか。世界で流行するものはたいていそうです。ベートーヴェンしかりモーツァルトしかり。ただ、それが心の底からチャイコフスキー本人の内なるものを表せているかどうかは個人的には疑問です。もちろん、必ずしも作者の内心を表現するもの=音楽とは考えてはいませんが。

つまり、チャイコフスキーは自己自認について大きなストレスを抱えていたのではないかというのが、私の見立てです。いわゆるアイデンティティの悩みとも違います。国籍や、血筋、身分など集団の中における自分の在り方の話ではなく、「自分」と「自分」との関係についてです。彼の場合、自己自認が分裂しており、統合されていない。統合されているようにふるまえるけど、納得しきれていない危うさを感じるわけです。

「トランス〇〇」という概念が浸透し始めたのが最近ですので、この観点からチャイコフスキーを研究する人は恐らくまだおらず、今後深まっていく視点であると思っています。

チャイコフスキーの交響曲第5番の中には、特段の発想記号がなくても「この記譜であれば当然そうなる」と思わされ、かつ歴史的にそのように演奏されてきた箇所がいくもあります。今日日それを無思慮にそのまま演るのは、「ズボンを履いているから男の子」というのと同じくらい危うい事になってしまうのではないでしょうか?

そのような視点で、ほんの少しいくつかの実験的な試みを混ぜてみたつもりです!

是非8/5お越しください^^

詳細は↓

JUNPEI FUJITA

指揮者 藤田淳平のホームぺージ。出演情報、ブログなど。

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